世紀末の墓

お気持ち.log

IT系寄りの雑記

「学ぶ」ってなんじゃろ

はじめに

僕は、「学ぶ」ってことは「色付け」ってことだと思うんだよ。

既存の世界の仕様

そもそも、この世界には新しい要素が追加されることはない。

人間ベースで考えると知っているものと知らないものがあるだけであり、世界の仕組みが変わっているわけではない。

人間の技術で仕組みに関与できるようになったとしても、それは世界の仕様上可能であるということを人間が見つけただけだ。

世界の仕様そのものを変更できたわけではない。既知の物質を組み合わせて新たな物質を作り出すことなどは、その良い例かもしれない。

無色の世界

世界の仕様ははじめは無色の状態。これに各々が色付けしていくのが「学び」。

一つの事柄への捉え方は人それぞれだし、印象や解像度も人それぞれ違う。

新しいことに意識的/無意識的関係なく触れた時、受けた印象の大きさや種類によって色が付けられていく。

産まれたときからその積み重ねをして、色が濃くなった部分が自分の得意だったり好きだったりすることになるんだろうと考える。

感性とかその辺もたぶん塗り具合に影響を受ける、気がする。知らんけど。

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「浅く広く」はここでいう「薄く広く」になり、「深く狭く」は「濃く狭く」に対応する。


学びの場と広さや解像度

学校

「学び」と聞いて一番に思い浮かぶのはやはり学校だろうか。学校ではカリキュラムに則り、ある程度の解像度を持った体系的な情報を得ることができる。

それに社会の縮図と呼ばれるくらい、周りとの人間関係とかの学びも得られる。その守備範囲は結構広くて汎用的。

日本には義務教育が9年あるので、そこで学ぶものが「常識」として共通認識になっているのだろう。共通認識ということは、だれもが同じような色で同じような範囲を塗られているということだ。

それが悪いことだとは思わないし、むしろある程度の民度を保つためには大切っぽい。

本は学術的専門書から子供向けの絵本に至るまで、実にいろいろな種類がある。同じ分野で同じような事柄についても、たくさん数が存在する。

それは、著者によって見方や説明の仕方、その人のバックグラウンドや得意分野に違いがあるため、得られる情報の広さや解像度に違いがあるからだ。

本は読者が自分の色塗り具合に応じて選ぶことができるのが、いい点。

同じ本でも読者によって塗り具合は変わるし、内容と読者の塗り具合との相性がある。



ただこれらの学びは、世界の仕様のなかで人間が既に知っている仕様について知るものである。一般人は先駆者が広げたカンバスを塗っているに過ぎない。

ただ、その世界の仕様を人間が塗ることができる状態にすることが、研究なんじゃなかろうか。

つまり、研究者は先駆者が広げた世界の既知か否かの境界線をさらに広げていくんだ。

この研究は、研究者が同時に色塗りもしているので本人の学びも同時に成している。

今までの話をまとめるとこんな感じ f:id:silmin:20190225002837p:plain

年齢による差

歳を重ねるごとにどんどん学んで色が落とされていくわけだけど、年齢によって感動が減るとか体感時間が短くなるとかそういうのは、日常での学びが少ないからだと思う。

学びがあったとしても何かと関連付けられて飲み込める、色濃くなるだけ。

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ただ、大人も自分が全く知らなかった分野に触れた時には、子供と同じくらいの学びがありそう。